ペダルのこと、演奏のこと

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「先生、ここのペダルはどうしたら良いですか?」
 
素朴で真っすぐな質問というのは時に指導者を悩ませるもので、ペダルの
使い方についてこのように事もなげに尋ねられると未だに動揺を隠せず、
つい呆気にとられた風を装って濁してしまいたい気持ちに駆られるのですが、
ともかくペダリングというものは、装飾音やヘアピン(松葉<>)と同じく、
そのためにまるまる一冊の専門書が書かれてしまうほど奥が深いのです.
 
幸いなことに、今はそうした参考書や文献が簡単に手に入る時代ですから、
どうぞご自身でそれらを読んで勉強されてください.はい、以上です.
 

‥と実際に言ったら怒られそうなので、ペダルの役割について少しだけ
掻い摘んで、そこから現代のピアノを弾く際の注意点や演奏解釈の
問題に対して僕が自らの経験から感じていることを書き綴ろうと思います.
 

先にお断りしておかないといけませんが、ここではソステヌートペダル
には触れず、ダンパーペダルとソフトペダルのみについて書きます.
それから、簡潔に書くつもりですが、ちょっと長くなるかもしれません、、汗
 

よく知られているように現在のピアノにはペダルというものがあります.
おそらくもっとも多く使われるのは右端にあるダンパーペダルですが、
左端のソフトペダル(ウナ・コルダ)も個人的にはとても重宝しています.
 
ただ、ソフトペダルの使用に関して、後から述べますが、それに頼るのは
プレイヤーの甘えであるというストイックな考え方や、そもそもウナ・コルダの
意味をよく知らないまま、使うべきか使わずにおくべきかを悩んでいる方が
少なくないことも事実です.前者については部分的に共有できる所はあるものの、
後者については、厳しいけれども、僕は彼らの勉強不足だと考えています.
 

さて、ダンパーペダルを使用する利点は、なんといっても打鍵後の響きが
解放されることにより、倍音が豊かになり、そこから得られる美しいレガートと
ハーモニックなアプローチにピアノならではの無限のグラデーションを与えられる
ことだと思います.ただし、いずれも音楽理論を無視して縦軸・横軸のダイナミクス
を誤ると、不快な響きが生じ、結果的に楽曲のシステムの崩壊を招く恐れもあります.
 
また、ダンパーペダルは使用するタイミングが的確でないとその効力を十分に
発揮できないばかりか、思わぬ事故を起こすこともあります.音を鳴らす前から
ダンパーを上げた状態にしておくのか、それとも弾いた後からキーを押さえた状態で
ペダルを踏み込むのか ─ おそらく実際の演奏でもっとも多く使われるのは鍵盤を
沈めるのとほぼ同時にオンにするケースかと思います.ただ、これもいわゆる
シンコペートペダルで踏み替える場合には、そのポイントを旋律、拍子、和声といった
基本要素を総合的に判断しなければならないため、踏み替えのタイミングは頻度と
共にさらに複雑になります.僕の演奏を間近でご覧になった方だとわかって頂けると
思いますがダンパーペダルを扱う右足は演奏している間は絶えず小刻みに痙攣している
ような動きになることも日常的なことです.緊張して足が震えているわけではありません.
 
さらに、その動作の物理的要因の一つでもあり、今日の楽器で古典から近・現代の
作品を演奏する際に欠かせないテクニックとして、ペダルの深さをコントロールする
ということが挙げられます.当然ながら、ベートーヴェンとショパンとドビュッシーは
みな同じ楽器で作曲していたわけではありません.どの作曲家も当時のペダルを
使いこなしていたとは思いますが、それぞれの時代の楽器のポテンシャルを考えれば、
ダンパーペダルを「踏むか踏まないか」という単純な二分法で取り決める手段には
あまりにも無理があると言わざるを得ません.さらに言えば、現代の素晴らしく
大きな音の出るグランドピアノでもそれぞれ個体差があり、気候やホール等の条件に
よって、そして、もちろん演奏者のコンディションよっても常に「音」は変動します.
 
ですのでダンパーペダルの深さはあくまでケースバイケース、今の僕自身は、
たとえ状態の芳しくないピアノであってもダンパーペダルの深さは少なくとも5段階、
やや先回りをしてしまいますが、ソフトペダルも3段階くらいは踏み分けています.
極論を言えば、ペダルはなければないなりの演奏はします(ピアニストは楽器を
選べませんから).しかし、あるものであれば、出来る限りを尽くしてより良い
パフォーマンスに繋げるのがプレイヤーとしての最低限の仕事だと思っています.
 

ところで、ここからが本題です‥すみません、いつも前置きが長くて.
 

以前からも感じていましたが、今でもレッスンをしていてソフトペダルを使うことに
抵抗 ─ どこか後ろめたさのようなものを感じている方が意外にも多いということに
改めて驚いています.そして大半の方が、「ソフトペダルは音を小さくするためのもの」と
捉えていることもわかりました.けれどもそれはあまりにも短絡的な発想で、その小さな
誤解が元で演奏解釈に齟齬をきたす可能性は十分に考えられると危惧しています.
 
僕は仮に楽譜にフォルテ( f )と書かれている部分であっても条件や状況によって
ソフトペダルを使用することがありますし、センプレ・ピアニッシモ( semple pp )と
指示された急速なパッセージの中で響きの陰影を作る目的で瞬間的にウナ・コルダ
(この場合は例えるならばドゥエ・コルデと表記したほうがニュアンス的には
伝わりやすいと思います)にすることに対してなんのためらいもありません.
つまり、ソフトペダルというのは分かりやすく言うと音色を変えるためのペダルです.
 

前置きにも触れたように、そもそもの作曲家の時代の楽器と現代のピアノは構造や
性能が異なるため、ダンパーペダルしかり、ソフトペダルしかりで、ペダリングは決して
類型的な踏み方で解決できるものではないのです.楽譜に記されている、或いは
記されていない作曲家のペダリングに関する表記や編集者の提案に対して
必要以上に厳格にそれに従うということは、今、ここで生の音で音楽を
再現するという醍醐味を放棄するに等しいことと僕は考えています.
 
もっとも作曲家のペダリングが誤っていたわけではありませんし、議論になりやすい
ショパンのアスタリク(*)でさえも、編集段階のミスでなければ、そこには
やはりなにがしかの意図はあったのだと思います.一方で、武満徹のように
作曲家自身の、信じ難いほど緻密に計算されたペダリングが整然と記されている
場合もあります.しかしながら、それでも完璧ではありません.なぜなら本当に
理想的なペダリングは実際に弾いた音を聞かずして決定することは不可能だからです.
これが、「ペダルは(足ではなく)耳で踏むもの」と言われる所以です.
 

ここで一つ例を挙げて説明したいと思います.
 
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 op.27-2
「月光」の愛称で親しまれているこのソナタの第1楽章の冒頭には作曲家自身
によってsenza sordino というペダルについての指示が記されています.
senza は 「~なしで」、sordino は弦や管楽器などでは「弱音器」を表します.
 
ここで、この楽語をそのまま「弱音器なしで→ソフトペダルを使ってはいけない」と
誤解してしまう方がいたとします.おそらくそれは単なる無知によるもので、
完全に間違った解釈です.というのも、これはベートーヴェンの時代の楽器を
知っていればこの senza sordino が音を解放する、つまり、ダンパーペダルを
使うために書かれたものであるということがすぐに識別できるからです.
 
ただ、それよりも僕がここでより深刻な問題と感じているのは、仮にそのような
知識の無さから起こる勘違い(僕にもたくさんありますが‥)があったにせよ、
他の楽語・楽章・作品・ベートーヴェンやその周辺といった諸々をふまえたうえで
実際にこの第1楽章を演奏してみた時、「そうだなぁ、ここはちょっとソフトペダルを
使ってみようかしら‥」という試行がなされないことです.陰鬱で極めて内向的な
バスの通奏低音、苦しげでどんよりとした三連符のアルペジオをキラキラした
クリアなサウンドで弾きながら違和感を感じないということに演奏解釈に
おける本質的な、かつ根の深い問題が横行しているように感じます.

 

そして、それは何もペダルに限ったことではありません.
 
僕が尊敬しお付き合いをさせて頂いている指揮者や作曲家の方々は異口同音に
「楽譜は決してパーフェクトではない」、「記号や楽語は音楽そのものではない」と
仰っています ─ 無論、楽譜というものが極めて合理的で、素晴らしい発明品であると
認めた上でです.ここに書くまでもなく楽譜はクラシック音楽の発展に大いに貢献しました.
現在でも学問的正当性や中立性を重視した版はもとより、同じクラシックの作品でも
興味深い解釈版が次々に出版され、さらにそれらは度々改訂されていると聞きます.
 

しかしながら、たとえ僕のような奏者の端くれでも、どんなに優れた楽譜をもって
しても作曲家の想いが100%伝えられているものはあり得ないということを日々ひしひしと
感じますし、さまざまな条件や状況を考慮したうえで臨機応変に対処する柔軟性を
排除してまで「正しい演奏」に拘る姿勢には疑問を抱かずにはいられません.
 

ペダリングの問題は特にデリケートなのでさまざまな意見があって良いのですが、
少なくともピアノを演奏するという行為があらゆる想像力やセンスの問われる極めて
高度で骨の折れる作業であることを忘れてはいけないと思います(それはペダル
一つをとっても、検討を重ねていくうちにやがてそれがペダルだけの問題では
済まされなくなることからも明らかです).作曲家の動機や思惑、音楽理論的な約束事、
そして響きの原理‥そういったものが有機的に絡んだ結果が音楽であり、本来はたった
一音を鳴らすことだけでもプレイヤーにとっては決して易しいことではないのです.
 

話を戻しますが、参考までに、僕自身がどのようにして今のペダリングを習得したか
というと、初めは10代後半に響きを徹底的に聞き分けることからスタートしました.
こうして言葉で伝えることは簡単ですが、感覚的に実感を伴うまでになって、
いわゆる打鍵後の残響を聞くことがいかに集中力を要するものであるかが確かに
わかりました.それから、ショパンのノクターンとドビュッシーのプレリュードで
具体的な響きの追いかけ方や混ぜ方などを手と耳を使って慎重に学び、4,5年ほど
かけて概ね今の感覚に近い手ごたえを得る事ができました.おもしろいことに、
足の使い方をあれこれ工夫をした覚えはまありません、だからレッスンでも
その部分の説明に関しては完全にお手上げになってしまうですが‥

 

いずれにしろ、演奏するうえで大切なことは常に「音をつくる」という原点に
立ち返ることだと思います.そのためには、さまざまな音楽を知ることはもちろん、
たくさんの本を読んだり、自然に触れたり、いろいろな人たちと交流したり‥
そうしたどこか原始的な活動の中から自身の想像力や感受性を育み、
この変化に富んだ世界を心から楽しめるようになることです.

 

 

今は福井に帰省しています.家の法事ですが、思ったよりも寛げています.
水不足で痩せてしまったアマガエルに狂い咲きのフジ、鮎釣りは今が最盛期.

 

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3件のコメント

  1. こんにちは。

    「ペダル」と一言で言っても本当に奥が深いものなのですね。
    今回のエントリーを読んでそう思いました。

    私は趣味で弾く程度なので、「この部分ではペダル必要かな?どうかな?」くらいのレベルですが、やはり自分で奏でる音をきちんと聴いて判断するべきものなのですよね・・・。
    【ペダルは耳で踏むもの】
    勉強になります☆

    今回のお話を読んで、私は子供の頃を思い出しました。
    その頃は少しでも早くとぎれのない演奏をしたい気持ちにかられて、安直に右側のペダルを踏むクセがあり、よく地元の教室の先生に注意されました(苦笑)。
    学生時代観ていた服部克久さんの番組で「あく間(悪魔)が怖い」という話をされていて、まさにこれは私のことだ!と思ったものです。
    それからは両手がしっかり演奏できるようになってからペダルを踏むようにしています。

    最近練習時間が取れないでいてもどかしい日々ですが、落ち着いたら今回のお話を思い出して、私もペダルに改めて向き合っていこうと思います。
    時々右足のウオノメが痛んで「イテテテ・・・」ってなりますが(笑)。アヤ

  2.  残暑お見舞い申し上げます。
    立秋過ぎて台風が列島を縦断し、今日は恵みの雨、過ごしやすい一日でした。
    ペダルについて改めて考えてしまいました。
    ソフトペダルを踏むと確かにそこで一安心、ピアノにお任せ状態になっているなあ、と
    反省しました。そこからの弾き方をもっと考えないといけませんね。ただ弱いだけでは
    どうしようもない・・・。
    いろいろなことを忘れる一方ですが、なぜかペダルを初めて習った時のことはよく覚えています。゛私も踏んでいいんだ!!” その時はとても感動しました。
    「耳で踏む」とはおっしゃるとおり!耳も頭も総動員ですが、疲れていると集中できていない・・・をはっきり自覚する今日この頃で情けないことです…。

     ヘンレ版の背表紙、笑ってしまいました。私もセロテープのお世話になりました。
    パデレフスキー版に至ってはガムテープで補強、色合いは合う・・・でも何と言っても荷作り用のテープ!春秋社版は何年経っても大丈夫です(笑)

  3. Ayaさん
    ペダルについて語りだしたらもう止まらなくなってしまうのですが、Ayaさんくらいのレヴェルになれば曲によっては初めからペダルを使って譜読みを始めないと作曲家がどんな響きを求めていたのかがチンプンカンプンの状態で音や記号をやっつけていく作業になりかねません.やっとの思いでフィンガーレガートで弾けるまで練習を積んでも、それからようやく(ペダルを使って)アフターサウンドを意識し始めたのでは遅きに失するのです.もちろん、前述のように、それは作品によりますし、部分的にペダルなしでも弾けなければならないパッセージや和音はたくさんあります.ただペダルそのものは、当たり前の理屈ですが、ペダルを使った状態で耳のセンスを鍛えないことには真の意味では使いこなせるようにならないんですね.今度レッスンにいらっしゃった時に実際の曲で説明しましょう.私、忘れてしまうといけないので覚えていてくださいね、、笑

    匿名希望さん
    私も最近ほんとうによく忘れます、とりわけ先月(8月)はこれまで生きてきた人生でもっとも忘れっぽいひと月でした.曜日や人の名前に始まり、日用品、楽譜、資料etc..とにかくありとあらゆるものを失念してたくさんの方にご迷惑をおかけしてしまって.って、そういう話じゃないんですよね、、汗 小さいお子さんがペダルを使うべきか否かについて私はここでは何とも申し上げられませんが、少なくとも大人になれば、分別や物事に対する理解力が格段に増しますから、それはそれなりに(ペダルを使った状態で)諸々に伴う苦楽を受け止めて頂かなければなりません、、苦笑 ちなみに背表紙(裏表紙と書くべきでしたかね)の落とし主はSchumannの”Fantasie”でした.

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