飛ぶように日が過ぎていきます、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
僕はというと、おかげさまで3週続いたコンサートを無事に終えることができ、今は大学の勉強と秋以降の演奏会、そして今年度から講師を務めさせていただく読話講習会の準備などでそこそこ賑やかな日々を過ごしています。
さて、先日開催させていただいたHiraku Concert Vol. 1 の振り返りとして、当日終演後のスピーチ(書き起こし)の内容をこちらに掲載します。できるだけ今の僕の素直な気もちを綴りたかったので少し稚拙に感じられるかもしれませんがご容赦ください。
Hiraku Concert Vol. 1 ~ 夢、その先へ。(主催者ご挨拶)
本日はおいそがしい中、「Hiraku Concert Vol.1 ~ 夢、その先へ。」 にお運びいただき、また長時間にわたり最後まで耳を傾けてくださり本当にありがとうございました。
生徒たちの発表の場を設けるのはおよそ5年半ぶりでしたが、それぞれの演奏を互いに聴き合い、語り合う時間がどこか懐かしく、なんとも言えない居心地の良さを感じました。この感覚は音楽を心から愛する人たちが集い、想いを交わす場にこそ生まれる豊かさだと思います。
今回、とりわけ感銘深かったことは、普段は当然のこととして知ったつもりになっている「音」という存在について、あらためて考え直すきっかけをいただけたことです。音は空気の振動であり、音階は周波数の規則性に名前をつけたもの ― 驚くほど当たり前なことです ― もちろん、それ自体はとっくに理解しているつもりでした。でも、実は「わかっている」という感覚そのものが僕の中ではとても曖昧であり、その「わからなさ」すら実感できていなかったのだと気づかされました。
おもしろいことに、その果てしない感覚が不思議と嫌ではく、むしろワクワクする瞬間もありました。それは、出演者の一人ひとりが自分なりの音楽観や表現のスタイルを模索しながら歩んできた軌跡が演奏ににじみ出ていたからだと思います。
そして皆さんの演奏に向き合いながら、ふと思い出した言葉があります。それは「音楽は、想像の中でもっともくっきりと姿を現す」という言葉(※)です。これはある小説の一節ですが、今日はそれに素直に共感しながら演奏を聴くことができました。
言うまでもなく、音楽の響きの美しさや作品の魅力は外からもある程度評価されるものであり、現代では科学的な分析やデータによる裏づけも進んでいます。けれども、そうした外からの情報の積み上げでは到底たどり着けないものが生の演奏には宿る。僕はそう思っています。
どういうことかというと、僕たちの想像力は、突き詰めていけば五感を通したプリミティブな経験の蓄積によって育まれるもの。現代は何もしなくても次々と情報が流れ込んでくる時代ですが、それらの多くは自身の体験を伴わないいわゆる副次的な「二次情報」に過ぎません。対して、今日のように同じ空間・同じ時間を共にしながら音楽を体験することは「一次情報」、まさに生きた情報です。音楽に限らず、こうしたリアルな体験こそが、僕たちの感性や想像力を無限に広げていってくれる ― そのことをあらためて実感しました。
つまるところ、僕たちは外側からの分析や解釈では得られない「解」を、音楽を通じて無意識のうちに求め続けているのではないでしょうか。それは正解の「解」ではなく、解釈の「解」です。そんなことを僕は今日の皆さんの演奏を通して感じていました。
ところで、「Hiraku Concert」は、長い時間をかけて悩み、考え抜いた末につけたタイトルです。今後もその時々の自分の状態や年齢、環境によって意味合いを変えながら、この言葉に自分なりの解釈を重ねていけたらと願っています。そして皆さんにとっても、自由にこの言葉を受け取っていただけたらうれしいです。
最後になりますが、今日は僕の準備不足もあり、運営スタッフが十分に揃わない中での開催となってしまいました。にも関わらず柔軟に対応し、至らなさをサポートしてくださった出演者・関係者の皆さまに、心より感謝申し上げます。
本日はどうもありがとうございました。
※奥泉光著「シューマンの指」 (講談社文庫) より