薄々わかっていたこととはいえ、半年ぶりに会った知人からあいさつもそこそこに「声すごい訛ってますね」と指摘されればさすがの僕もそれなりに落ち込みます苦笑
それはそうと、注文してから思いのほか早く届いた本の一節にとても感銘を受けたので、以下に引用させていただきます。
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今の社会は、目を皿のようにして他人の負のイメージを探し出し、宣伝し、バッシングし、貶めることで、自分たちのアイデンティティを確かめ合うという、同調暴力が荒れ狂っている。その暴力を恐れるあまり、負のイメージとなりそうなことを必死で押し隠して生き延びようとする生き方が、半ば強制されている。この息苦しさ、強迫観念から解放されるには、それが「負」ではなく自分にとっての普通であることを、自ら示せば良い。
※「未来の記憶は蘭のなかで作られる」星野智幸著(岩波書店)より
仕事柄、むやみにカムアウトすることを躊躇する一方、隠し通すことにどれほどの意味があるのか、むしろ隠すことで事態が悪化しているとさえ感じられる日々の中、この文章はストレートに僕の胸に刺さりました。
ただ、当事者として ― ここがほんとうにむつかしいところでもあるのですが ― それが『「負」ではなく自分にとっての普通であること』、その理解を得ることはそう易しいことではないと痛感をしています(「普通」の定義があやふやになっているような気もしますが、話が複雑になるのでそこは割愛)。
とりわけ(両親や少ない親友を除いて)相手が近しい人の場合、『「負」ではなく普通であること』、つまり僕にとっての当たり前に対する理解を得るにはまだまだ時間と労力が要るように感じます。無論、相手に貶める意図がないことは書くまでもありませんし、一年前の僕にとっての普通と現在の僕にとっての普通が同じではない、そういう意味で今の僕はニューノーマルを生きていると言えなくもなく、それが故にある種の戸惑いのようなものが生じることは致し方のないことだとも思います。
強いて言うと、そもそも身体機能の低下は生きていれば避けられない「変化」であり、視点を入れなければそれ自体に本来は正も負もないとある時から割り切るようになりました。もっともそうとでも思わなければ先に進めないという感覚はあります。
話を戻すと、確かに呂律が回ってないなぁと自覚することもあり、その度にいちいち「僕の声、大丈夫ですか?」と質問していた無意味さがよくわかったので ― はじめはショックを受けましたが、今はその事実を指摘したうえで「負」ではなく普通のこととして受け止めてくれた知人に感謝をしています。
写真の説明
近所の石神井川に住み着いたと思われるカワウ。「井の頭公園から(追い払われて)キマシタ」と顔に書いてあります。80センチくらいありました。
えっ、
耳の次は…声!?
でも、
それが先生にとっての「普通」なら大丈夫!大丈夫!
それよりは、カワウがちょっと分からないけれど「井の頭公園」から来たかどうかは?そっちの方が分からなくないですか?
川鵜、いい表情で撮れてるのぉ!
川村さん、こんにちは♪
9月になってもまだまだ暑いですね!
台風も心配ですが、つい先日は福井県で大きな地震がありましたね。
ご実家は大丈夫だったでしょうか?
今回もエントリー読ませて頂きました^^
初め「訛」という字が読めなくて・・・(苦笑)。
「訛りがある」(方言が出てしまう)ということなのかな?と思って読み進めたら、「呂律が回らない」ということなのかな??
「どっちか分かんな~い」ってなってしまいましたが(笑)。
川村さんとお話してる分には、私は訛りは全然感じていません。むしろ「もっと福井弁でお話して欲しい」なんて思ったりもしています(でもあんまりコテコテの福井弁だと字幕スーパーが必要ですネ)。
呂律のことは、最近直接お話出来ていないので分かりませんが、どうなのでしょう?
口を少し大きめに開けて舌の先を上あごにくっつけることをしていると活舌が良くなりますが、呂律にも効くでしょうか☆
他人の負のイメージではなく、正のイメージを見つけ出して、お相手の良いところを認めて伝えていければ相手も喜ぶでしょうし自分自身も楽に生きられるような気がします。
写真のカワウさん、私にも「井の頭公園からキタデ!」と伝わってきました!(あはは)。アヤ
コメントから、
呂律、訛りで心配になったんですが、病気が関係してる
かもしれないので、もしご心配に思うようでしたら、
一度、大きな病院で専門の先生に診て貰ったほうが良い
ように思います。
お体お大事になさって下さいね。
おはようございます。
昨日で一段落一安心したものの、2人でも家族全員会食禁止、必要以上の接触を避けるよう、言われました。なので、もし、川村先生はじめ、お友達や大事な方に対面出来たら、それだけでも嬉しい、今の状況です。
声も話し方も、その日の体調や気持ちや周りの状況によって、聞こえ方が違う事もあると推測します。マスク着用もあるので、聞き取り易い話し方やテンポを、意識はしていると思います。
公共の場でのアクセシビリティは今年の3月からは特に、感じられるようになりました。通勤電車やお店で、最低限の会話と会釈や譲り合いが、より多く見られます。私見ですし、データを取った訳ではないですが、疲れが軽減します。
昨日、CDの新たな聴き方に気持ちが和みました。最初のシューマンをかけたまま、窓を開けて換気したところ…
土曜日なので、周りの家仕事の音と子供達の遊ぶ音や声が背景になり、シューマンやメンデルスゾーンと一緒に耳に入ると、心底安心した気持ちになれました。
こんな気持ち、久しぶりです♪
お疲れ様です。
私の方は、昨日で一段落一安心しましたが、たとえ2人きりでも、会食は家族全員禁止と、病院から言われました。
その様な状況なので、川村先生はじめ、お友達や大事な方に、もし、対面出来るとしたら、それだけで嬉しい状況です。
声ひとつとっても、その日の体調や気持ち、周りの状況によって聞こえ方が違ってくると推測しているだけですが…
今年の3月から特に、公共の場でのアクセシビリティは、より感じられます。職場や電車やお店で、最低限の会話と会釈と譲り合いが普通になりました。私見ですし、データを取った訳ではないですが、疲れが軽減します。
昨日、CDの新しい愉しみ方が、偶然、見つかりました。CDをかけたまま換気で窓を開け、土曜日なので周りの家仕事の音と子供達の遊ぶ音を背景に…
シューマンやメンデルスゾーンが和んで、心底安心出来ました。
こんな気分は、久しぶりです♪
連投だった頃いろいろ申し訳なかったかもしれないと後悔もしたり、多幸だけを願い遠ざかってしまっていましたが、新たなご活路の境遇を心底喜びながらも、その後、書いたり消したり言葉を紡げないままでした。ひっそりと応援するのも素敵だと思ったりしました。
コロナ禍の世界の惨状を辛く思いますが、それだからこそ一層音楽の力も再認識させられています。そして曲、演奏、全部を含むパフォーマンスの中で伴われ紡がれた思索が自分を支えてくれることも感じます。川村さんこそはそのような道だったとも思います。
どんな時もどうあっても負けないで歩まれてください。そして力まずでよく、心身ともに休憩なさってください。また踏み出せるときは踏み出してください。どんな時期もそれはおそらく自分には(何故にも)必要だったから巡って来ていると思うのですがどうでしょう。
過日、私はハシビロコウのリアルに描かれたアイテムを買って、その絵図に何故にも惹かれたのでしたが、背中で川村さんの鳥目線風景を思い出していました。メシアンでなくても、音楽家が鳥に惹かれるとき、そこにはその佇まいから自分の心模様が投影されているのかもしれません。またお元気なご活躍を陰ながら期待しています。ご郷里は雪景色でしたでしょうか。。。
それでいいという人生を愛したい自分がいます。