祖母の影響も多分にありますが、フードロスを減らす、食材を使い切るというのは本来あたりまえにできなければならないことで、決して褒められるようなことでもなんでもありません。サルベージクッキングも然り。
ところで、最近はスーパーやネットショップでもいわゆる「訳あり」がよく見られようになりました。物は言いようというか『傷つきながらもおいしく育ちました!』と書かれた札やうたい文句をみると、あぁそれならば買ってやらんでもないぞとヘンな正義感がわいてくることもあるにはあるのですが‥なんだかあべこべだなと思います。
傷がつくのは自然に育くまれた証でもあり、それがふつうなんです。だから形がきれいに整って見栄えのする食物の中にはどこか余計な手が加えられていて不自然に育ったと言えるものもある。むしろそちらが訳ありではないのですか?と言いたい。時折り僕が桐箱の贈答品やブランド品種を敬遠する理由は、値段がどうこうではなく(見た目が悪かろうが特別おいしくなかろうが)生き物が育つというのはこういうことだよというのを子ども心にすりこまれたからかもしれません。
ちなみにいそがしかった頃はなかなか行けなかった近所の八百屋さんでは、落っこちてくぼんだリンゴやうまく育たなかったみかんを籠盛りにして売ってくれるので、僕はジュースにするためにその子たちをちょくちょく引き取ります。店側もまぁそんな子もいるよねくらいの感覚だからいちいち訳ありなどと書かれてはいません。長く行先の決まらないキャベツは外葉がはがされ、そのうち内葉もはがされ、最後はほとんど中心葉と芯だけになるのですが ― 時とともに傷んでゆくのは人もキャベツも同じですね ― 独り身にはかえってちょうどよかったり‥そういえば廃棄寸前のゴーヤの腐ってない部分をカットしてもらって5センチだけ譲っていただいたこともありました。
冒頭に書いた祖母は、食べ物だけでなく衣服や食器、紙や糸などあらゆるものを粗末にすることなく活かした人で ― 亡くなった後に聞いた話ですが、なかなか複雑な幼少期を過ごしたそうです ― 僕が物心つくころには怪我や病気を抱えていましたが、それでも残った身体機能を最後の最後まで使い尽くして見事に生き切りました。今ふり返ってみても、あんなに味わい深い人はもう周囲にはいないなぁとしみじみと感じます。
というわけで訳ありはふつうというお話でした。
写真の説明
毎食の自炊は大変なので、今は2, 3日に一度まとめて常備菜を作ります。
優れた真空のクリアキャニスターのおかげで、常に飢えている
生野菜サラダの作り置きも可能になり大変重宝しています。
「訳あり物件」…だとなんかちょっとこわくないですか?
ちゃまさん
そうきましたか‥(笑)
住む条件にさえ適していれば過去のことは別に気になりませんよ。
そういえば…話し変わるかも?
大分県の合宿に参加させていただいた時に、
みんなで夕食を食べていた時に、
川村先生が私に「カレー美味しい?」って聞いてきて、
そのカレーには見たところ具が入っていないのだけど、すりおろした野菜類が入ってるとのことで「生徒で野菜が食べられない子がいるから、分からないようにして食べさせたいんだ」とのこと、
それでその生徒さんがそのカレーを食べているの見て、陰ながら嬉しそうな顔で見てる川村先生がいて(そしてその姿を)陰ながら見てる私だったのでした。ピアノのことだけでなく生徒の健康のことまで考えている川村先生のエピソードを東京の街を歩きながら急に思いだしてしまったことがあって、その時は歩きながら涙が出てしまいた。。すりおろすとムダなく食材も使えるのかな?訳ありでも気にならないかな?と思って…
合宿、楽しかったね~(^o^)!!
たしかに。生きるってことは、ある意味で「傷モノになる」ってことでもある。その傷一つ一つを醜いとみるか、味わい深いとみるか。「歳を重ねる」ということの「美しさ」というのを、現代はなかなか実感しづらいし、その良さを誰も言葉にして表現しないから、みんながみんなスーパーに並ぶキュウリのようになりたいと願うし、それがキュウリのあるべき姿だと思ってしまう。「いい歳の取り方」とは何だろうね。
ちゃまさん
私はすっかり忘れてましたよ‥ちゃまさんの記憶力にただただ脱帽です。
なまけものさん
>「いい歳の取り方」とは何だろうね。
う~ん‥それは幸せとおなじで他人が決めることではないやろな。歳を重ねるっていいなぁって自分が腹の底から思えてればほれが結果的にいい歳の取り方してるってことでないんかの?