20200104a

明るいマイノリティ

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 昨夜は東京都中途失聴者・難聴者手話講習会の修了式がありました。式では修了生の代表挨拶を務めさせていただきました。また、クラスメイトたちと共に準備してきた修了発表の寸劇『難聴者困った!あるある〜手話のメリット』も楽しく終えることができました。お世話になった皆さま、本当にありがとうございました。

 
 ところで手話の話はこのブログでも時々触れてはいますが、「むずかしくてよくわからない!」というお声をいただくので、僕の聴こえと併せて簡単に説明させていただこうと思います。ここに至るまで数えきれないほどたくさんの方々のサポートをいただいたおかげで今の自分があります。僕なりにできるだけ言葉を選んで書きますが、もし失礼がありましたらどうかご容赦ください。
 
 今現在、僕が普段の生活の中で使用する手話は日本手話(ろう者的手話)寄りの中間手話です。一般的に、中途失聴者や日本語を第一言語とする難聴者が使う手話の多くは日本語対応手話と呼ばれる日本語に即した手話ですが(※1) ― それを「手話」と定義づけるか否かについては専門家に委ねるとして、ここでは話を複雑にしないよう手話とします ― 僕の場合、自分が発話する声の声量や抑揚がわからなくて常に気を張りつづけなければならないこともあり、簡単な日常会話であれば単語数が少なく意味(語彙)の豊富な日本手話に惹かれるのは極自然な流れだったのかなと今では思っています。

 あれ、そうはいってもこの前ふつうにぺラペラ声でしゃべってなかった?そもそも補聴器をすれば聴こえるんじゃないの‥さっそくそんな質問が飛んできそうですが、残念ながら話はそう単純ではありません。

 同じことを違う人たちから何度も聞かれるのはそれはそれでつらいという気持ちもありますが、それ以上に、微力ながらも似たような境遇で苦しむ友人たちを勇気づけたい。そして超高齢化社会により今後ますます増えるであろう感音性難聴が少しでも理解されることに淡い期待を抱きつつ、以下、順を追って書かせていただきます。
 

 まず補聴器について。補聴器はその性能を飛躍的に向上させています。ご存知のように、2000年以降はアナログからデジタルが主流となり、さらに近年は人工知能を搭載したモデルや音楽に特化したプログラム(※2)が次々とリリースされ僕も大いに活用しています。

 また、条件がそろえばスマホやパソコンとワイヤレスで連携してストリーミングを楽しんだり、ウェビナーやビデオチャット等で音を感受することも不可能ではありません。お世辞に抜きにこの時代に生まれて本当に良かったと思っています。

 ただし、同じ聴覚機器でも利用者の聞こえの程度や難聴の種類よってユーザーの満足度には少なからず個人差が出ます。音への感度だけでなく、聴き癖 ― 例えば、聴こえが変わるまでに普段から音そのものにどれだけ注意を払ってきたかなど ― そして決して安くはないデバイスへの心理的期待感などが複合的に絡んでくると、装用した時の聴こえ方は人の数だけあるのではと思わずにいられません。

 いずれにせよ僕のような重度の感音性難聴の場合、装着すれば直ぐに効果を感じられるメガネのようにはいかず、「せっかく購入したけど効果がなく宝の持ち腐れにしている」、「離脱した‥」などといった話も人伝にちらほら耳にしています。

 対人コミュニケーションに関しては例えば皆があたりまえに手話を身につけられればそれに越したことはないのですが、そのような環境が整うにはまだまだ時間がかかりますから、補聴器を適切に活かせていない方々の困りごとを伺うたびに、同じ当事者としてなにかできることはないものかと思いを巡らせています。

 ここまで書けば、定期的なフィッティング(マッピング)はもちろん、実生活において使用する目的を明確化しデバイスの音と自身の聴こえをどう擦り合わせるか、また、それを達成するために信頼できる認定技能者や言語聴覚士と良好な関係を築き、根気よくリハビリやトレーニングを重ねていくことがいかに重要であるかをなんとなく想像していただけるのではないかと思います。

 
 そんなわけで、人に恵まれたことに感謝しながら僕も僕なりに努力はしてきたわけで、よく頑張ったぞ自分!偉いぞ!と労ったりしてみたくもなるのですが‥哀しいかな、自然に聴こえていた頃のように人の声や音の内容をオートマティックには理解できません。まるで異次元の世界です。

 手話・読話(※3)の成立しないシーン、字幕・要約筆記を含む情報保証がない時、聴きとりには集中力と判断力、そして経験に基づく勘が必須音楽に例えるならば、音やリズム一つひとつを頭の中で音符に置き換えていく機械的作業ではなく、テーマ(主題)を手掛かりに聴こえてくる音を抽象化すると同時に次の音節の展開や転調を予測しながら聴くような感覚です。

 ざっくりと言えば、聴きとれた音の断片をかき集めて話の全体や要点を先取りしながら把握していくことが、僕が補聴器を装用している時の音声コミュニケーションのからくりです。

 当然ながら、テーマのはっきりした事柄を順序立てて話していただく分にはさほど困りません。けれども目的や狙いのよくわからない会話やポンポン話題が飛ぶような雑談はほぼお手上げです。

 これは決して笑いごとではありません。ぱっと見でわかりにくいことも相俟って、時には深刻な不利益をもたらすこともあります。意外と知られていませんが、何不自由なく聴こえる人、話せる人たちの他愛ないおしゃべりだったり、喧噪の中からふと聴こえてくる呟きには実はおいしい情報がわんさか隠れていることがあるからです。

 ここは意見が分かれるかもしれませんが、誰かがついポロッと漏らしたことばを無意識に聴覚で拾いあげたときのあのうま味は、仮に聞き返したり、ゆっくり話してもらうようリクエストしても元のように再現することはできません。なぜならその人らしい自然な、生きた言葉としての臨場感やおもしろみが損なわれてしまうからです。これは僕があえて聞き返さなかったり、スローテンポな音声コミュニケーションを好まない理由の一つでもあります。
 
 とにかく、聴こえていた頃には大して気にも留めずに取り込んでいた膨大な音の情報が、もはやひとりでには入ってこなくなる。それが中途失聴の実相です。普段から情報の取捨選択を心がけ、少しでも気になったことはすぐにメモをしてあとから調べ直す。自ら調べて調べて調べまくって、覚えたらまた学びほぐす。その繰り返しです。

 もっとも、根がそそっかしい僕にとっては不確実な事柄に対して性急に答えを求めることがなくなり、反対にじっくりものを考えるようになれたという点で、今のライフスタイルは言うほど悪くはない‥ということも念のためにつけ加えておこうと思います。でもやっぱり、大変ですけどね(笑)
 

閑話休題
 

 というわけで、ようやく冒頭の話に戻りますが、日本語対応手話での代表挨拶をさせていただくにあたり、今週は発声練習をがんばりました。スマホに向かって夜な夜な声を張り上げる自主トレは我ながら滑稽でもありましたが、挨拶を終えた後には年の離れた友人たちや他のクラスの方々が手で声をかけてくださり、なんだかあたたかい気持ちになりました。

 
 ところで今、手話言語条例/手話言語法運動でむずかしい問題が起こっているようです。(※4)「手話は言語」というスローガンを皆さんも一度はどこかで聞いたことがあるかと思います。

 もしかするとこのブログをご覧になっている方々には、私には関係ないわ~と思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、ジェンダー平等を含むダイバーシティ(多様性)、或いはSDGs(持続可能な開発目標)の推進にも見られるように、それによって救われる人がいる一方で、立派な掛け声に埋もれたマイノリティの文化や尊厳が脅かされる可能性がある ― 不思議なことに、この点に関してはあまり表沙汰にはなっていないようです。

 差別や偏見、不公平をなくすために皆が一丸となって取り組むこと自体はすばらしいことだと思います。けれども、双方がていねいな対話や歩み寄りの姿勢を持たなければ、かえって問題を拗らせてしまうのではないでしょうか。極論を言えばそもそも人や文化に正解も不正解もありません。それらは知らないうちに刷り込まれた、あとづけされた概念に過ぎないのです。

 目標達成の数値を示したり基準を設けることを否定はしませんが、右も左も一律に従わせることで豊かな共生社会が実現できるかは個人的に甚だ疑問です。共に生きるとは、仲良く手をつないで歩むことや密にかかわりあうことと必ずしもイコールではないからです。

 人は人、自分は自分。良し悪しや優劣にこだわらずに違いは違いとしてただ認める。そのようなシンプルで明るいマイノリティとしてさらに視野を広げ、今後も志を持ってあたらしいことに挑戦していきます。
 

 さて、手話講習会はこれで一区切りとなり、今日は待ちに待ったひさしぶりの休聴日。検定試験も控えていますが、ようやく取り掛かれた年賀状の返信の続きをしながら過ごそうと思います。
 
 皆さまもどうぞ良い週末をお過ごしください。
 

※1.それぞれの手話については、いつもお世話になっているNA花井盛彦手話教室のホームページでとても分かりやすく解説されています。

※2.Facebook で詳しく紹介していますが、現在はブレインヒアリング・テクノロジーで有名なOticon社製品をメインデバイスとして使用しています。

※3.読話とは主に口の動きなどから声で話されている内容を把握するスキルですが、体系的に学べるテキストや講習はきわめて少ないです。

※4.ブックレット『手話を言語と言うのなら』森壮也 佐々木倫子 編(ひつじ書房)は必読。

参考文献
・『善意の仮面 聴能主義とろう文化の戦い』ハーラン・レイン / 長瀬修 訳(現代書館)
・『日本手話と日本語対応手話 闇にある「深い谷」』木村晴美(生活書院)
・『補聴器ハンドブック 原著第2版』原著 Harvey Dillon 監訳 中川雅文(医科薬出版株式会社)
・『Shouting Won’t Help』katherine Bouton(Sarah Crichton Books)

 

2件のコメント

  1. 人は過去の自分と今の自分を比べたりしがちですが、今、ここをどう生きていくかが大切ですね。見えなかった世界に目を向けることが出来、新たな気持ちで出発していらっしゃる事が素晴らしいです。色々、苦難もあり辛いこともあると思いますが、皆、中身は違うけど困難にぶつかったりそれを持ち続けながら生きていると思います。
    音楽の専門家で耳が聞こえづらい事から、同じような方への音楽へのアプローチを自分を通して考えることも出来ますよね。
    もし、良ければ地元でアクション起こして下さると嬉しいです。
    マイノリティって言葉、考えると可笑しいですよね。部分的にそうなる方がいるだけで、全てが努力もなくうまくいくことなんてないと思います。
    どんな生き方をしている方も、その方を尊敬できる人間になりたいなぁって思ってます。そして、対等な気持ちで共感し、必要な事があれば協力して行きたいと思ってます。
    私の主人が持っていた詩集に、今はムリ、その内やろう、10年経って思い出す、あのはあの時なら出来たのに。。。空よ、あなたは知ってたろう。と言うものがあります。今を大切に無理しないで楽しめる自分でいて下さいね。
    私の事少し書きます。丸岡町の障害者施設に勤めてます。ミュージック・ケアと出会い、音楽療法の一つなんですが、利用者に楽しんでもらってます。音源はCDを使ってます。、生演奏出来ないので。
    一昨年、主人が53歳で急に病気になり1カ月半で亡くなってしまいました。
    そんな主人も若い頃、事故で片目を失明してます。一緒に寄り添い普通に過ごしてました。特別なことはせずに。運転もしてましたね。
    今は主人の両親と暮らしてます。義父が高齢のための難聴ですね。また認知も。義母が大変そう。愛犬が癒しをくれてます。
    音楽の専門家ではないのでいろんな曲は知りませんがメジャーな曲は知ってます。クラシックの曲の効果は今の時代にいいなぁと感じてます。
    ユニバーサルマナー講習も自分のために受けました。
    また、なにかの機会にご縁があると良いですね。
    文章の中でもし気に触ることありましたらお許しください。

  2. 修了生代表だったんですね、
    先生はいつでも主役ですね(^^)v。

    今回のブログ読んで…
    (ずーーっと読んでいて正直…)
    途中であれ?閑話だったのか!?
    でも、
    前回のブログに比べて明るい印象を受けたような(ちょっと心配だったので)、
    でも前回のブログも「ほら、」なんて呼び掛け(心の余裕を感じる?)てるとこみると、

    先生はまだまだ大丈夫!

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