20170228a

失聴から僕が学んだこと

投稿者:

 おかげさまで昨年度につづき、今年も東京都中途失聴・難聴者協会の講習を一つ修了することができました。今年度は講習のカリキュラムとは別枠で、先月初旬に『失聴から僕が学んだこと』と題した特別手話スピーチをする機会をいただきました ― 結果的にこれまでの小さなリフレクションの総まとめのようなお話になりましたが ― 少人数クラスならではの参加度の高さと友情や信頼関係に後押しされ、これまであまり大っぴらにしてこなかったことも思いきってお話しました。

 そんなわけで特別スピーチのお声がけをいただいた当初はこのブログで紹介するつもりはなかったのですが、4月から新生活を迎えるにあたり、一つの節目をつけるためにもここに掲載をさせていただきます。内容はあくまで僕個人の実体験に基づくものであることと、掲載にあたって広く読まれる可能性を考慮し、声なしの手話スピーチとして準備した元原稿の一部を大きく加筆・修正していることをご了承ください。
 
 
東京都中途失聴者・難聴者協会
特別手話スピーチ

『失聴から僕が学んだこと』

 本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます。皆さんご存知のように僕は音楽家です。専門はピアノ。20歳で正式にデビューして以降、日本を拠点として各地で演奏活動を続けてきました。20代の終わりからは音楽大学などで14年間勤務しましたが、中途失聴がきっかけで2年前の3月に退職。現在はフリーランスとして音楽との新たな関係を築いています。

 これから、人生の途上で聴力を失った僕がその後どのように心を取り戻していったか、そして、失聴から学んだことを皆さんにお話させていただきます。その前に最初にお伝えしておかなければならないことがあります。それは、僕は今も自分の「聞こえにくさ」のすべてを受容しているわけではないということです。

 かの有名なドイツの作曲家、ベートーヴェンがそうだったように、僕も決して「難聴」を克服したわけではありません。端的に言えば聞こえの障害と共存し、聞こえにくさとともに歩んでいる、それ以上でもそれ以下でもないということをお伝えしておきます。*1)

 2019年の夏。7月8日の朝、目が覚めた時に左耳がほとんど聴こえなくなっていることに気がつきました。その頃はストレスから耳栓をして寝ることも多く、最初は耳栓が詰まっているのかと思いましたが、違いました。聴力が戻ることはなく、かといって落ち込んでもいられずクロス補聴器を装用しながら片耳の聴力で復帰しました。*2)

 ところが8月31日の夜、今度は右耳が聞こえにくくなりました。聞こえに異変が起きてから半年の間に3度の入院治療をしましたが、この2度目の入院期間は日に日に聞こえる音が減っていくことがわかり、とてもさびしく、朝を迎えるのが怖かったことを今でもはっきりと覚えています。

 両側性感音性重度難聴と診断され、ドクターからは生活のためにも人工内耳を勧められました。けれども僕は日常生活よりも音楽の音を大切にしたかったので補聴器を選択しました。そして最初の補聴器から入ってくるピアノの音をはじめて聴いた瞬間、「自分の音楽人生は完璧に終わった」と思いました。同時に、母校でもある音楽大学の退職の意思を固めました。

 表にこそ出していませんでしたが、その頃の僕は回避不可能な無力感とぜんぶどうでもいいという自棄が入り混じったようなどうしようもない日々に、せめて残された「仕事」に全力を注ぐことでなんとかバランスを図っていました。

 けれども、生きてみなければわからないというか、不思議なことに、もう失うものはないと思えるくらいに落ちるところまで落ちると人生はふたたび動き出すこともあるようです。

 せっかちな僕は、ひょんなきっかけから手話を身につけなければもう後がないという幸せな誤解をしました。*3) そして、良い意味で手話に裏切られました。手話には音(音声)がありませんが、手で自由におしゃべりをしている人たちの様子を見ていると、その生き生きとしたリズムや動きの強弱、多彩な音韻変化など、まるで目で音楽を聴いているかのように感じられました。

 これは僕が手話の虜となり、ろう者(ここでは日本語とは異なる文法体系を持つ日本手話を第一言語とする人たち)と交流するまでにさほど時間を要しなかった理由の一つでもあります。*4)

 さらに難聴者やろう者の中にも音楽を心から楽しんでいる方々がいるということを知りました。それまで音楽は耳で聴くもの、聴覚でとらえるものと思い込んでいた僕は、現在、ご縁があってアメリカの成人難聴者音楽家協会(AAMHL)の会員として約1,300人のメンバーたちと共に音楽や聞こえに関するさまざまな情報交換を行っています。*5)

 ここまで失聴してから今日までの経緯をお話しました。ここからは「失聴から僕が学んだこと」を3つお話したいと思います。

 1つ目は障害は単なる欠如ではないということです。失聴したから、障害者だからと自らの可能性を狭め、限界値を下げることはとてももったいないことだと思います。たとえ聴力が戻らなかったとしても、それにどのように対処するか、さまざまな方法を駆使することで道が開けることがあると今の僕は信じています。

 2つ目は、人生を肯定的にとらえるためには、多様な評価軸を持つことが不可欠であるということ。僕たちはつい年収や社会的地位といったわかり易い外的指標にとらわれがちですが、そもそも身分や資産と人間そのものの価値・生きる尊さはあまり相関していないように感じます。なぜなら個人の幸せも人生の意義も、突き詰めればその人のものの見方で決まるからです。

 失聴しなければおそらく出会うこともなかった人たちや異なる経験を持つ方々と共にささやかな意味を見いだす中で、これまでは頭でしか理解できていなかったことが肌感覚で実感できるようになりました。

 そして3つ目は、とてもシンプルなことですが、同時に実践することが非常にむずかしい事柄でもあります。それは、いかなる時も自分自身であることを尊重することです。

 失聴したことにより、他者からどう見られているかを必要以上に気にしてしまい、しばらく自分を見失いそうになった時期がありました。今ふり返ると、当時は周囲にとっての理想の障害者像(スティグマ)を過剰に意識していたのかもしれません。

 もっとも障害やマイノリティとしての「属性」を自覚することは社会的生活を円滑に営むうえで必要になることもあります。しかしながら、自分自身であることを尊重するためには、生まれもった気質やその後に培ってきた感性に従うだけでなく ― 感情に流されるという意味ではない ― 同時にあらゆる枠をとりはらった次元から自己を俯瞰する必要があります。自分自身を知るということは言葉で語るほど簡単なことではありませんが、いかなる時にも自分が自分自身であるために、日頃から自己とふかく対峙することが大切だと感じています。*6)

 最後に僕のもっとも好きな作曲家、モーツァルトの残した言葉と今後の目標をお話させていただき、このスピーチを終えたいと思います。35歳という若さで過酷な生涯を閉じたモーツァルトは「夢を見るから、人生は輝く」という格言を残しました。実を言うと、以前の僕はこの言葉が苦手でした。けれども、失聴がきっかけでさまざまな経験をさせていただき、今はこの言葉の真の意味を掘り下げて、自分なりにとらえ直しています。

 4月より、これまでとは異なる道へあらたな一歩を踏み出します。ゆくゆくは聞こえが理由で音楽から離脱する人を一人でも減らし、 聞こえる・聞こえないにかかわらず音楽を愛するあらゆる人々が自然体で集うことのできる場や空間をつくる ― それが今の僕の夢であり、目標です。

 まだまだ未熟者ですがどうか今後もあたたかく見守っていただければ幸いです。

 本日はご清聴いただき、ありがとうございました。
 

令和5年2月9日(木)
川村 文雄

 
 
参考:
1) “Hearing Beethoven: A Story of Musical Loss and Discovery” (R. Wallace)
2) クロス補聴器 = 先天性・後天性を問わず片耳失聴や聴力の左右差が大きい場合に有効とされる。
3) 世界保健機関(WHO)では純音聴力レベルが81dB以上を「Profound Impairment」とし、補聴器の効果が制限的、かつ手話・読話などのリハビリが必須としている。
4) 「日本手話って何?」 https://www.hanai-production.com/na-feature (NA花井盛彦手話教室)
5)  Association of Adult Musicians with Hearing Loss: Facebookグループ上の成人難聴者ミュージシャンの会員数(2023年3月現在)
6) 『この世で最も簡単なことは「他人に忠告すること」であり、最も難しいことは「自分自身を知ること」である』(哲学者タレスの言葉)