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沈黙する主体

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「私とは何か?」

この素朴で根源的な問いに初めて向き合ったのは、僕が17歳の頃でした。人格者であり思想家でもあった高校教諭の I 先生からこう問われたのです。

「川村は、私とは何かを考えたことがあるか?」

当たり前のように使っている「私」という言葉。でもそれは、名前でも肩書きでもなく、性格や役割でもない。存在者としての私 “Who am I ?” ではなく、この私という存在そのもの、あるいはその現象を生み出している何か “What am I ?” という問いでした。それ以来、30年近くこの問いと共存しています。
 

加賀スパトレイル 大日山

自律神経系とも言いますが、眠っているあいだも、意識がぼんやりしているときも、身体は休むことなく呼吸し、新陳代謝を行い、壊れた細胞を修復しながら黙って私を生かし続けてくれています。あるいは、こうして文章を綴っている今この瞬間も、その「何か」によって、私が支えられています。それは意識でしょう?と思われるかもしれませんが、意識に関連する神経活動のパターンはさまざまな形で解明されていても、ヒトがどのようにして意識を生み出しているのかというメカニズムは現代科学における最大の謎のひとつとされています。

僕は日々、欠かさず瞑想をしますが、ひとりで坐っていると、いわゆる日常生活のなかで「これが私だ」と思っているその私は、実に巧妙な形で社会から規定され、知らず知らずのうちに身につけてきたもの ― 誤解を恐れずに言えば、どこか「思い込みに近い概念」に過ぎないのではないかと感じることがあります。また、これまでの人生の中でそのことを痛感させられる出来事を何度か経験しました。
 

奈良公園の野生の鹿

たとえば多くの人々が中年期に直面するミッドライフクライシスの心理的ゆらぎは ― 必ずしもそれは「危機」ではなく、本来の自己自身に出会う入り口だと思っていますが ― そのことを如実にあらわしていると言えるでしょう。それは鎧のような社会的アイデンティティにすがる生き方とすこし距離を置き、本来の私に立ち返る通過儀礼のようなものと感じます。僕にとってのミッドライフクライシスとは、そんなわけで、他でもないこの自分の人生を生きるための長い準備期間の終わりの合図を意味します。
 

第14回 飯能ベアフットマラソン

本来的な自己との繋がりを感じることに関連して、最近は音楽を奏でているときやトレイルランニングをしている時に、ふと頭の中が驚くほど静かになる瞬間が増えてきました ― なぜだかはわからないけれど、手や足は最適に動いている ― 考えていないのに、判断していないのに、まるで身体そのものが私を動かしているかのような感覚です。とても不思議な感覚ですが、それは思考や分析ではおそらく得ることのできない確かな手ごたえです。

「身体の声に耳を傾ける」とは比喩的に使われる表現ですが、そうした瞬間は決して比喩などではなく、リアルな直接体験として訪れているように感じます。つまり、ふだん僕たちが「主体性」と呼んでいるその意志はあくまでも意識の表層にすぎず、「私」の大部分を動かしているのは、もっと深い場所に静かに佇むものではないか、と。
 

狭山丘陵のお散歩コース

僕は特定の信仰心を持っているわけではありませんが、仏教には「無我」という考え方があります。考え方と書きましたが、それは論理的に導かれるものではなく、なんだかよくわからないけれども何かの拍子にふと気づいてしまった実感と呼ぶほうがしっくりきます。即ち、もとから固定的な「私」はなく、つまり実体がなく、すべては関係性(縁起)の中で生成と消滅をくり返しているという見方です。

西洋的、あるいは近代的自己観が当たり前になっている方にとってはすこし難解に映るかもしれませんが、この無我を観る時、僕はそこになんともいえないやさしさと深い安堵を感じます。
 

ユキノシタ

現代社会は、思考がつねに外へ、外へと引っ張られていくような時代 ― とめどなく押し寄せる情報、比較や評価の渦にさらされながら、私は私そのものから遠ざかる。

僕自身、このようなぼんやりとした不安や息苦しさを覚えることは少なくありません。けれども、この身体の奥には絶えずひっそりと佇む何かがあり、それは言葉にならなくとも、日々僕たちを静かに支えてくれている ― 最近はあえて名前をつけずに、それを「沈黙する主体」と呼んでみたいと思うようになりました。
 

志賀高原100

数年前、「今も私とは何かを考え続けている。こんなおもしろいことはない」とお葉書を寄せてくださった I 先生。このブログをご覧になっているかどうかは分かりませんが、いつかまたお目にかかれたら、問いの続きをあらためて語り合いたいと思っています。
 

参考:
古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』.講談社現代新書
オイゲン・ヘリゲル著(魚住孝至訳)『新訳 弓と禅』.角川ソフィア文庫
アルボムッレ・スマサナーラ著『無我の見方』.サンガ新書
山下良道著『青空としてのわたし』.幻冬舎