20230325a

「生き抜かれた過去」が命の糧

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 以前、ブログにも書いたけれど、だからもう書かないけれど、人はほんとうにつらい時には 「つらい」 と言えないもの ― 少なくとも僕はそのような性質(たち)で、ネガティブ・ケイパビリティを提唱している帚木蓬生氏も述べているように、「死にゆく終末期の患者が主治医や医療従事者に心の内を吐露するのは、彼らがあかの他人という特権的な地位にいるからにほかならない」という考え方に深く同意しています ― ただ、それがいいのかどうかは昔もいまも正直まったくどうでもいいことで、そのつらさから抜けた先にはいつも 「音楽」 がある(あった)という摩訶不思議。それを書きたかった‥
 
 ともかくそんなわけで、半年ほど前からなんとなく不調が続いていたのですが、おかげさまで少しずつ安定し、今月のコンサートもどうにか終えることができました。
 

 ところで今の聴力、というか聞こえについては、おそらく皆さんが想像されているよりずっと芳しくないと思っています。実は、僕がそのことについて他人に話せば話すほど、自分の思いとうらはらに 「難聴」 に対する共通認識が乖離していくように感じ、しばらくその話題には意識的に触れないようにしてきました。ただ、日々いろいろな場所に出向いたり、直接人とお会いする時間が増えてきたこともあって、最近は「しなくてもいい努力は減らしたい」 ということを少しずつお伝えするようにはしています。言うまでもなく、それは僕自身を守るためです。

 一つ打ち明けることがあるとすれば、以前にくらべ音や音声の内容を理解するための脳のリソースを使い切る時間が明らかに早くなっているということ ― 体験しないとわかりにくいことだとは思いますが ― 聞き取れないことを仮にマイナスだとした場合、それを埋めるために、つまりゼロにするために浪費するエネルギーは決して少なくはありません。友人の言葉を借りれば、そもそも頑張っても聞こえないものを、努力を尽くして「なんとかゼロにまで漕ぎつけました」 なんて落語の落ちにもなりません。
 
 これは考え方かもしれませんが、僕はマイナスをゼロにする生き方をするつもりはありません。マイナスはマイナスのままで、そのうえで何ができるか、どこに時間と資源を割くかを見極めながら生きたいというスタンスです。ですので、「しなくてもいい努力」をもっと減らしていかなければと切に感じています。
 
 そしてこれも何度もブログに書いていますが、僕くらいの年齢になると生きるということは端的に失うことの連続です ― ただし生きている限りは失うこともまた意味のある体験であることを忘れてはいけないと考えています ― そのうえで、失ったものを取り戻すために奮闘するのか、或いは失った事実を受け止めつつ新たなものを創造していくかは個人の自由だと思っています。
 
 
 昨夜、大阪から戻る新幹線の中で「夜と霧」とその関連書籍を再読しました。とある詩人の言葉の引用とされる 「汝の体験せしことをこの世の如何なる力も奪いえず」は、幸せな思い出のみならず、艱難(かんなん)をも命の糧(かて)として真剣に生きる人々を鼓舞するメッセージとも受け取れるように感じました。そして 「生きぬかれた過去」 ほど確かな財産はないという文句に触れ、ひさしぶりに全身が痺れました。言葉って、すごい!

 ちなみに古いブログを読んでくださっている方はご存じだと思いますが、「命の糧」は中学の卒業時に担任から贈られた言葉です。我ながらずいぶん遠回りをしたような気がしますが、最近になって命の糧とは他者から与えられたり外へ探し求めるものではなく、自ら積み上げてゆくものだということをちゃんと理解できたように思います。
 

 まだまだ不安定な気候が続きますが、皆さまくれぐれもご自愛ください。

 
引用・参考
帚木蓬生著 『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』.朝日新聞出版
ヴィクトール・フランクル著 『夜と霧 ― ドイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾 訳).みすず書房
諸富祥彦著 『ビクトール・フランクル 絶望の果てに光がある』.KKベストセラーズ
川村文雄 『カイロスと祝福、または慈悲の光』 過去ブログ