ある事柄について議論をするとき、僕はまず、言葉の 「定義」 や 「前提知識」 を確認するようにしています。
おそらく生徒たちは、そのことをよく知っていると思います。実際、レッスンの中ではそれだけでも思いのほか時間がかかることがあり、まどろっこしいと感じられているかもしれません。
それでも、そこを曖昧にしたまま意見を交わしていると、同じ頂上を目指しているつもりが、実はまったく違う山を登っていた、という少し笑えないことが起こってしまいます。これまで何度も、そんな場面に出会ってきました。
たとえば 《孤独》 という比較的ありふれた言葉ひとつを取っても ― 正直、この話題を真剣に語るには何日もかかると思いますが ― フランツ・シューベルトとロベルト・シューマンでは、その質や状況は大きく異なります。
ざっくり言えば、シューベルトの 《孤独》 には、どこか世界から切り離され、帰る場所を失った者の外向きの独白がある。一方でシューマンの 《孤独》 は、人生を共にする理解者に恵まれ、家庭を築いてもなお癒されることのない、内向きの性質を持っているように感じています。
ちなみに後者について、後期の作品と彼の精神状態を安易に結びつけることには、どれほど慎重であっても慎重すぎることはないと思っています。専門家であっても、いや専門家であればこそ、推測の域を出ない深追いは、作曲者そのものを貶めてしまうリスクを含んでいるからです。
少し話が逸れましたが、このように、同じ言葉であっても、その背景や前提が違えば、見えてくるものはまったく異なります。だからこそ、それを丁寧に確認しないまま意見を差し出すことに、どこか危うさを感じてしまうのです。
ただ、日常の会話では、話を円滑に進めるために、そこまで細やかに意味をすり合わせることはあまりありません ― むしろ、言葉の強さや語感のほうが気になる場面も多いように思いますが ― それはそれで、議論とは異なる役割があるのだと思っています。
それでも、僕はおしゃべりそのものは決して嫌いではありませんが、気がつくと話がどこかで散らかってしまったり、論点が少しずつズレていく感覚に、一抹の疲れを覚えることがあります。それはきっと、自分がなにげない言葉のとり違えに敏感な性格であることとも関係しているのでしょう。
そう考えると、SNSなどでしばしば見られる価値観の違いや意見のすれ違いも、大きな思想の対立というよりは、こうした些細な言葉の捉え方や扱い方の違いから生まれているのかもしれません。
だからこそ、少し手間はかかるかもしれませんが、人生の限られた時間、何度でも強調しますが、ほんとうにわずかな時間を誰かと分かち合うときには、言葉をできるだけ大切に、丁寧に扱っていきたい。
そうすることで、言葉を交わすことの本来の意味や、人と向き合うことのあたたかさ ― たとえすべてを分かり合うことにはならなかったとしても ― 互いが同じ方向を見ていると感じられる時間へとつながっていくような気がしています。