聴こえを失っても音楽は失われない

　「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃない。音楽を心に想うことで、僕たちは音楽を聴ける。音楽は想像のなかで一番くっきりと姿を現す。耳が聴こえなくなって、ベートーヴェンはよりよく音楽を聴けるようになったんだ」

　「ピアノから出ている音だけじゃなくて、もっとたくさんの音を聴いている、というか演奏している。極端にいうと、宇宙全体の音を聴いて、それを演奏している。そういう意味でいうと、ピアノから出る音は大したものじゃない。だから、シューマンは指が駄目になったとき、そんなに悲しまなかった。だって、ピアノを弾く弾かないに関係なく、音楽はそこにあるんだからね」

※「シューマンの指」奥泉光著 (講談社文庫) より
　
　
　僕にとって、この台詞は単なるフィクションの中の絵空事ではありません　―　ミステリー小説よろしく挑発的で子どもじみた物言いではありますが　―　それどころか、『音楽体験は人間全体に関係しており、音楽体験において耳は通常考えられているのとは全く異なった機能を有しているのです。「私は音を耳で聴く」というのは、非常な誤りです。』（「音楽の本質と人間の音体験」R. シュタイナー著　西川隆範訳 / イザラ書房）にも見られるような、既成事実のみで物事を判断することへの警鐘であると同時に、示唆的で鋭い洞察に満ちた音楽論であると感じます。

　ところでこの「聴く」とはいったいなんでしょう？よく知られている純音聴力（気骨導）やABR(聴性脳幹反応)検査などは一般的に聴力の指標とされていますが、これらの結果をもって聴く力を判断したりされたりすることに対し、僕はいよいよ懐疑的になっているようです。なぜならそこから得られた数値が「聴く」ことの実相をつまびらかにしているとは到底思えないからです。それは「聴く」こと全体の中のごくわずかな、ほんのわずかな一部を見える化したものに過ぎない ― そのわずかが、どのくらいわずかかさえわからない ― 「聴く」を生理学的に推し量ろうとすることが、或いは無理があるのかもしれません。

　人が音や音楽を感じたり感じなかったりすること、意識したりしなかったりすることの不思議。そもそも音や音楽が在るとはどういうことなのか。なぜそれはあるのか。どうしてそれは「ある」のであって、「ない」のではないのか ― ここまで突き詰めるとまるで禅問答のようですが、聴こえていた頃をふり返ると、こんなにも身近にあった重大な問いをびっくりするほどなおざりにしてきた。そう言わざるを得ません。

　もっとも最新の医療テクノロジーの恩恵を受けられている身として、科学の進化には大いに期待をしています。一方、ある能力が損なわれたとしても ―　たとえそれが傍目に見て絶望的に感じられるものだとしても ― それをカヴァーするに余りある可能性を人は生まれながらに持っているように感じます。

　AAMHL のスローガンでもある「聴こえを失っても音楽は失われない」 ― それを実証するためにも自分で自分の道をしっかり照らしていこうと思う今日このごろです。

　
　皆さまどうぞ良いクリスマスをお過ごしください。
　

お知らせ
　本日25日（土）、せたがや がやがや館にて開催される HANAIプロダクション手話発表会に出演させていただきます。社会問題から個としての人生論に至るまで熱く語られるネイティブサイナーの花井盛彦先生、そして心あるたくさんのクラスメイトの皆さんと共に学べたこの1年に感謝し、心をこめて演じたいと思います。お近くにいらした方はぜひ。