昨夜、久しぶりに室内楽のコンサートを聴きに行きました。演奏していたのは、僕がよく知る音楽家たちです。その場にいられたことはもちろん嬉しいことでした。けれども、その演奏内容の多くを、僕はほとんど聞き取ることができませんでした。
難聴になって、気がつけば7年になります。今の聞こえで音楽と向き合うことにも、以前よりは慣れてきました。ストレスがないわけではありませんが、それなりに折り合いをつけながら、この聞こえにくさとともに暮らしています。
それでも時々、「自分だけが、別の世界にいるのかもしれない‥」そう思う瞬間があります。昨夜もそうでした。もっとも、演奏がよくなかったわけではありません ― むしろ、僕はその人たちがどれほど優れた音楽家であるかをよく知っている ― けれど、目の前で奏でられている音楽のディテールにどうしても触れることができない。その隔たりをはっきりと感じ、少しだけ心もとなくなりました。ところが、会場を後にするころには、不思議なことに、「また明日もピアノと向き合ってみよう。」と思っていました。

実のところ、このような経験は初めてではなく、何がそうさせたのかは、今もうまく説明できません。ですので、その理由についてはここでは詳しく書かずにおこうと思います。ただ一つ言えるのは、音をどれだけ正確に聞き取れたかだけでは説明できない何かが、確かに僕の中に残ったということです。
聞こえにくさが、音楽を楽しむうえで不利にはたらくことは明らかです ― 当事者である僕自身も、そのことは痛いほどわかっています。音の高さや微細なニュアンスを聴き取れないもどかしさが解消されることはありません。それでも、その事実だけで音楽との関係を終わらせたくはないのです。
もし僕が、「以前の聞こえを取り戻したい」という思いだけを抱えていたなら、おそらく今日まで音楽を続けることはできなかったでしょう。失ったものを追い続けるかぎり、それは喪失を確かめる作業になってしまうからです。
だから今は、誰かと比べることでもなく、外からの評価を求めることでもなく、この聞こえで、自分なりの音楽の味わい方を見つけていくことを大切にしています。

そして昨夜の出来事を思い返しながら、僕は時々ぶり返す「音楽の価値は誰が決めるのか。そもそも、良い音楽とは何か?」について思いを巡らせていました。この問いは、さらにもう一つの問いへとつながっていきます。
それは、市場競争の中で高く評価され、多くの支持を集めることと、受け取る人の心が豊かになることは、果たして同じなのだろうかということです。誤解をしていただきたくはないのですが、僕は市場そのものを否定したいわけではありません。市場は価値を測る一つの物差しです。ある種の競争の中から時代を超えて愛される素晴らしい演奏が生まれてきたことも事実でしょう。けれども、その物差しだけでは測れない価値も、確かにあるような気がしています。
売れている演奏。
再生回数の多い演奏。
高い評価を得ている演奏。
それらは確かに、社会の中で支持されているという一つの価値を示してくれます。けれども、それがそのまま、一人ひとりにとっての「良い音楽」になるとは限りません。

僕がほんとうに興味があるのは、ある音楽が、その人の中に何を残すのかについてです。
懐かしい記憶を呼び起こすのか。
少しだけ心を軽くするのか。
あるいは、「もうちょっとがんばってみよう。」と思わせるのか。
こうした価値は、市場だけでは測ることのできない場所で、音楽と出会った一人ひとりが決めるものなのだと思います。
もし何かの縁で、僕の演奏を聴いてくださる方がいたとします。僕とは違う聞こえ方で、僕とは異なる人生を歩んできた、その人なりの仕方で音楽を受け取ってくださる。同じように、聞こえていなくても、同じ場所で、同じ時間を分かち合うことはできる。そんな瞬間がこれからも続くのであれば、音楽をする者として、これ以上に幸せなことはありません。

昨夜、僕は演奏の多くを聞き取ることができませんでした。それでも帰るころには、「また明日もピアノと向き合ってみよう」と思っていました。
こうした時間が誰かの心をほんの少し前へ向かせることがあるならば、少なくとも僕は、そこに音楽の確かな価値を見いだしたいと思っています。