自己肯定感より大切なもの

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自己肯定感という言葉に、昔から一抹の違和感を抱いています。

とりわけ音楽活動において、僕は自己肯定感の欠如をしばしば指摘されます ― もちろん、その言葉をかけてくださる方々の「善意」は十分に理解しています ― ただ、自己肯定感とは、究極的には自分自身を受け入れることだと思っています。さらに言えば、自己肯定には高いも低いもないと考えています。

子どもの頃からかわらずある大好きな広場

仮に、他人から褒められたりポジティブな評価をされたりすることで自己肯定感なるものが上がったとします。確かに他者に認められて一時的に支えを得られることはあります。けれども、僕にはそれは自己肯定というより、他者からの承認によって得られる安心のように思えるのです。そもそも評価というものは、何らかの基準や物差しによって行われます。学歴、職業、収入や社会的地位 ― あるいは肩書や実績、仕事の成果もそうです。けれど、それらは人を比較したり分類したりするための指標にはなっても、人間であることの本質的な価値を決めるものではありません。

全日本裸足ラン選手権(21.1km)を完走

どれほど裕福であろうと、どれほど他人から称賛されようと、その人自身が人生の豊かさや生きる喜びを感じられずにいるなら、それもまた一つの真実です。反対に、社会的な評価をほとんど得られなかったとしても、その人が目的を持って人生を大切に生きているなら、その価値が損なわれることはありません。

家では「手で味わう」ことを心がけています

話を戻すと、最近は「自己肯定感」という概念そのものが必要なのかどうか、そんなことまで考えるようになりました。現代社会には、今この瞬間を味わうことから私たちの意識を逸らす情報が溢れています。そして常に、何かを求め、何者かになることを促されているようにも感じます。けれども、自分の価値観に従って心すこやかに生きるために、自分を高く評価する必要もなければ、低く評価する必要もありません。なにも過不足はない。ただ、生きていることそのものに価値がある ― そんなふうに思えたら、それで十分なのかもしれません。

若いレモンはライムの様なスパイシーな香り

もちろん、目の前の人が楽しそうに過ごしてくれたり、「良い時間だった」と言ってくれたりすることは素直にうれしいです。でもそれは、自分の価値が証明されたからではありません。その人と時間を共有できたこと、その時間がその人にとって意味のあるものになったことがうれしいのです。振り返ってみると、僕が求めているのは評価でも自己肯定感でもなく、「つながり」なのかもしれません。短い人生の中で、人と人が出会って、ほんのひと時の時間を分かち合い、何かを感じ合い、伝え合うこと。僕にとっての音楽は、そうしたつながりを育むために大切な役割を果たしてくれています。

共演させていただいたメンバーと共に

所属や属性に関わらず、生きることが無条件に尊重されること。
あらゆる人の日々の暮らしが守られていること。
その傍らに音楽があればいい。

今の僕は、そんな当たり前のようでいて、かけがえのないものを大切にしたいと思っています。