20240809

無分別と慈しみ

投稿者:

 アイデンティティとは、(私が)何者かであらなければならないという強迫観念だと思っています。このような体認の伴わない用語による知的理解の押しつけ、或いは非マジョリティも含む集団的圧力によって自由と創造性が奪われ ― 自由とは好き勝手に振る舞うという意味ではなく「自らに由る」、すなわち自らの存在に立ち返り、自存するという仏教用語です ― かりそめの安心感や享楽に浸るために心を浪費してはいないでしょうか。

 人の心(≠感情)というのは良くも悪くもふわっとしていて、それは毎瞬毎瞬、生成消滅を繰り返す「私」に少なからず影響を与えています。現代社会には心を撹乱させるモノや情報があふれかえっているため、そうした外的刺激によって知らず知らずのうちにでっちあげられた「私らしさ」や「虚構の自分」を演じている(させられている)ことにほとんど無自覚でいられます。たとえば国家や組織、家族や肩書など、これらは一時的な属性に過ぎず、しかも実体がありません。
 

 二分法的思考にも見られるように、「分けることでわかる」はある意味では正しく、合理的だと思います。実際、分析を通して納得することはたくさんあります。けれども私たちは ― その正しさや合理性を正当化することによって ― ほんとうに豊かな心を育めていると言えるでしょうか。
 

 無分別とは自他の区別を超えたところからものごとを見極める認識力です。もっとも一人として同じ人間はいないのですが、他人は他人、私は私というところから分断が生まれます。人間以外の生き物も然り。最近、ひとりでよく山の中を走らせてもらっているのですが、ふと気がつくと、どこまでが自分でどこからが山なのかわからなくなります。同一化ではなく境界があいまいになるというか ― そもそも境界はあるようでないものだと思っていますが ― その感覚をあえて言葉で表すならば「これでいいんだな」です。感覚ですから、そこには理屈も論理的思考も介入する余地はありません。
 

 少し話が脱線しましたが、最近は自身のコンサートにおいても無分別を感じていることがあります。正直、若かったころは自分へのこだわりが強すぎて、些末なことに気を取られてばかりいました。というより自分がどう見られているかを気にし過ぎていたのかもしれませんが、いずれにせよ自分自身が他者から切り離されているという感覚です。
 

 先日、今年最後の公のコンサート(であってほしい‥)でベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第32番 Op. 111 を演奏させていただきました。正直、生きている間にこの作品を理解できるとは思っていません。けれども、いろいろ思うところがあって、癒しなどという軽い言葉ではなく、心から救いを必要としている、或いは人知れず誰にも打ち明けられない悩みや苦しみを抱えている人たちが幸せであれるよう願いを込めて弾かせていただきました。

 もっとも、それが届くはずもないことは百も承知ですが、不思議なことに、ある時点から演奏を通して逆に自分自身が救われているかのような感慨を覚えました。尊敬するベーシストの言葉を借りれば「どんな雑音も宝物」とでもいうか ― はじめての出来事にいささか戸惑いもありましたが、先人の言うように歓びとは哀しみのあとにやってくるものなのかもしれません。
 

 僕は特定の信仰を持たないのですが、最後に好きなことばを引用させていただきます。

いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、
悉く(ことごとく)長いものでも、大きいものでも、中くらいのものでも、短いものでも、
微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

※ブッダのことば – スッタニパータ(岩波文庫)

 
今年のコンサートにいらしてくださったすべての方々にこの場を借りて感謝申し上げます。
まだまだ暑い日々が続きますが、皆さまどうぞお身体を大切にお過ごしください。
 
追記
ウェブサイト(PC版)で過去の主なイベントのコメント等が閲覧できるようになりました。

参考:
オフィシャルブログ「内なる平和」(川村文雄)
Instagram Fumio Kawamura(@kawamurunning)